清濁あわせもつ世界を描くという深い価値観に魅力のある、完成度の高い作品

精巧に作られた世界観を持つ本作「風の谷のナウシカ」は、独自の世界観と物語の面白さによって、読者の心をとらえる優れた出来栄えをもった作品です。

私達は、この作品から何を学び、何を考えていけばいいのでしょうか。

単純な面白さと、それ以上に哲学的な問いかけが表れている本作のストーリーには、目を見張るものがあり、そこからは、色々な事を考えていく事ができるのではないか、と思いました。

ここでは、オームについて、巨神兵について、ナウシカの性格について、といった側面から、物語の内部に迫っていきたいと思います

オームは、自然の生き物か?旧世代の人類が作ったのか

深い世界観が形成されている風の谷のナウシカ。その中でも、オームは、神聖な生き物として、自然界側からも、人間側からも畏敬の念を持って扱われています。

オームは、昆虫でありながら神聖さが特徴的な生き物ですが、気になる点として、旧世界の技術の粋が集められたシュワの墓所を流れる血が、オームの血液と同じであった、という事が挙げられます。

これは、旧世界の技術を使ってオームが作られたという事なのでしょうか。

そもそも、腐海は世界を浄化する旧世界のシステムとして広まったものであり、という事は、その一部であるオームも、旧世界から生まれた生き物である、という事ができるのでしょうか。

しかし、旧世界を悪と決めつける内容が広まっている物語において、オームも、旧世界に属する否定すべき存在なのかというと、そうではありません。

その心は慈愛に満ちており、自らの身を投げうって仲間や粘菌を助ける素晴らしい心を持っています。

すると、ナウシカが否定した旧世界の一部から、オームのような神聖な存在が生まれてきたという事になります。

神聖な心を持つオームの存在と、旧世界の技術の粋をかき集めたシュワの墓所に、同じ性質があるというのは、どのように考えればいいのでしょうか。

否定されるべき汚濁にまみれた旧世界にも、善を生み出す精神は残っていた、と考えるのが妥当でしょうか。

どうしようもなくなった世界で、それでも善を生み出す精神を宿していた人々の事を考えると、心にくるものがあります。

そのような心がオームを生んだと考えると、そこに救いのようなものがあると言えるのではないでしょうか。

オームに宿る聖性について考えた時、どうしようもない世界からでも善や救いは生まれてくる、という作者の思いが表れているような気がします。

汚れた旧世界にも、聖性は存在していた。

旧世界の汚れた思想から、清浄な存在が生まれた。そこに、この物語の救いがあるような気がします。旧世界の墓の主は、新しい世界のために穏やかで正しい存在である生き物を用意していました。

しかし、そのようなものがなくても、すでにオームという神聖な存在が生み出されているのであり、ナウシカが否定した新世界の技術など無くても、苦しいけれど幸せもある世界は存在しているのです。

これは、まるで我々の世界の捉え方を投影しているかのような価値観です。我々の世界にも、苦しい事、大変な事がありますが、それと共に嬉しい事や楽しい事があります。

墓所の主の見解によると、このような苦しみがあり、腐海が広まっている世界は浄化の途上にある世界だという事ですが、そこには、既に神聖な生き物であるオームや、大変な思いをしながらも生きている尊敬すべき人々がひしめいています。

そこには、すでに汚辱に汚されていても、確固とした世界が成立しているのであり、そこに表れる神聖さなどと合わせて、ナウシカは、世界を肯定しました。

たとえ、それが、清浄と汚濁にまみれている世界であったとしても、ナウシカは、世界とはそういうものだ、と主張しました。

汚濁を否定するのではなく、受け入れる事で、人々は自身の心にわき起こる、怒りや嫉妬などの感情から渦巻く罪の意識を和らげる事ができるのであり、そのような意味において、ナウシカの選択は、正しかったのかもしれません。

人間とは、清濁あわせもつ存在であり、そこには、時々自分の存在が嫌になる事があっても、それは否定する事ではないよ、というありがたい教えが含まれているような気がします。

いずれにせよ、そこに、旧世界が生み出した神聖な生き物であるオームがいる限り、人々は現在の世界に聖性の一部を見い出しながら、生きていけるのではないか、と思いました。

戦争に向かないナウシカの心こそ、戦士達を動かす

ナウシカは、とても気高い心を持っていると同時に、どこまでも深い慈悲を秘めています。

自身を殺そうとしたドルクの皇帝を助けたり、戦いで傷ついた戦士を介抱したり、その性格は、戦いに向いているとは思えません。

実際に、クシャナと戦闘に出た時は、相手を殺す事をせず、毛長牛の動きを乱す戦法をとったり、瀕死の重傷を負った自身の馬を抱きしめて泣いてしまいます。

このように、ナウシカは、勇敢ではありますが、そこにある深い慈悲の心は、戦闘に向いているとは思えない側面があると思います。戦場で敵をなぎ倒す果敢な戦士とは正反対のような存在です。

しかし、周りにいる戦士達は、そのようなナウシカの深い慈愛の心や、戦士を介抱する様子に心動かされ、彼女を女神のように扱います。戦闘に向かない心が、かえって戦士達の心を動かすのです。

ここに、面白い逆説があると思うのですが、戦士達は、激しい戦いの繰り広げられる戦場で、怒りや憎しみなどの激情にさらされ続ける事によって、逆に、戦場の中に、戦場とは異なる慈愛のような心を求めるようになるのではないか、と思いました。

そして、そのような慈愛の心を体現したナウシカが戦場で力を発揮する、というのは、なかなか面白い部分があるのではないか、と思いました。

なぜ巨神兵は残されていたのか

旧世界を破壊した巨神兵は、恐るべき存在であり、あってはならないものであると思います。しかし、旧世界の人々は、工房都市の深部に、巨神兵の元になる骨格材料を残していました。

巨神兵の恐ろしさを知る旧世界の人々は、なぜ、巨神兵をせん滅させておかなかったのでしょうか。

物語の中では、旧世界の調停の神として巨神兵が作られたと言われていますが、いずれ、次の世界でも巨神兵の力が必要になる時が来るかもしれない、と思ったのか、単純に、技術の結晶としての巨神兵を滅ぼすのが惜しかったのか、その真相は物語の中に描かれていないので分かりません。

しかし、そのような所にも、人間の心のリアルが描かれていて、マンガという仮想世界でありながら、現実以上に濃密な世界が展開されているのではないか、と思いました。

これは、ある意味で、私達の生きる世界と同じであり、作中の清濁両面が表れる世界というのは、実際の世界をよく表していると思います。

しかし、だからこそ、清濁が問われる状況になった時、清浄の方を選べるように心得ておく事が大切な事なのであり、作者も物語を通してそのような事を伝えたかったのではないか、と思いました。

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