鬼滅の刃の上弦の参、猗窩座。
彼は彼は強さを求め、戦いを欲し、楽しむように煉獄杏寿郎を倒しました。
無限列車編では、戦うことだけに固執する猗窩座の様子が描かれていますが、そのずっと後のお話で、なぜ彼が強さだけを求めてしまうのか次第にわかっていきます。
罪人のしるしが全身に描かれている猗窩座の姿が、なぜこんなにも悲しく美しく見えるのか。
煉獄さんを亡き者にした、鬼の猗窩座がなぜこんなにも魅力的なのか。
炭治郎たちと戦い、人間であった頃の過去を思い出した時、猗窩座の悲しくも暖かい記憶が紐解かれていきます。
猗窩座が強さだけを求めるわけ
猗窩座は炭治郎と戦っている時、過去を思い出していきました。
くだらなく滑稽で、つまらない過去。しかし本当に暖かく、心をゆさぶる過去。
彼はその過去があったからこそ生きることができ、すべてを失うことで鬼になってしまったといえます。
猗窩座の技の名前は花火が由来とされていますが、人間の時の生き様はまさに花火のように派手で、爆発的で一瞬でした。
鬼になる前の猗窩座は、狛治という名前でしたが、不幸で短い人生ながらも大切な人が3人いました。
そしてその人達と一緒にいる時、その人たちを守っている時、彼は自分をいくら犠牲にしても幸せだったのです。
しかし大切な3人は、死んでしまいます。
幸せな時間は本当に短く、運命はあっという間に全てを奪っていきました。
それからすぐ鬼となり、強くなることに執着した猗窩座。
理由もなくそれに固執していたように見えましたが、本当は、狛犬を連想させる狛治の名前のように、強くなって大切な人を守りたかったという想いが、鬼になっても残っていたからだったのです。
そして最後の瞬間、本当に最後の瞬間になぜ自分がこうなってしまったのかを気づくことになります。
彼は本当は、自分の弱さを認めたくなかった、許せなかったのです。
猗窩座の破壊殺・羅針について
猗窩座の技には『破壊殺 羅針』という技があります。
実はここにも、彼の人間のとしての想いがあらわれています。
これは相手の闘気を察知する技なのですが、この技をくり出す際、猗窩座の足もとには雪の結晶の紋様が現れるのはご存知の方も多いでしょう。
これは作者も言っていますが、人間だったときの猗窩座の大切な人、小雪の髪飾りの模様となっています。
さらに余談ですが、雪の模様には、
壱、弐、参、肆・・・。と猗窩座を囲むように、漢字で数字が12まで書いてあります。
十二鬼月?と思いがちですが、これは方角を表しているのではないかと思われます。
戦闘機などの乗組員が「3時の方向に敵機あり」と、言ったりするあの数字です。
紋様をもとに相手の闘気を感知していると考えられます。
そのような重要な鬼の技であるのにかかわらず、猗窩座は自分でも気づかないうちに、大切な人のトレードマークを模していたのでしょう。
「もう、どうでもいい」
無惨に鬼にされた時、最後に狛治はこう言いました。
しかし、どうでもいいと言った裏には、何よりも人間として幸せを求め、執着していた想いが強く残っているように感じます。
そして自分をあきらめ、鬼として強さだけを求めていた猗窩座には、他の鬼にあった狂気が感じられません。
人間としての弱さを塗りつぶすように強さにこだわり続け、上弦の鬼となります。
猗窩座の強さは、人間の頃の自分の弱さの上に成り立っているのではないかと思うのです。
猗窩座にとっての“ こぶし”
猗窩座にとって、人間の頃の執着が残っていると思われるところがもうひとつあります。
それは、鬼としての武器がこぶしのみ、というところです。
元々自分が拳で生きてきた、という事もありますが、もっと大きな理由が実はあると思うのです。
それは、狛治の人生で欠かせない人物、師範の影響です。
狛治は自分の父親が亡くなり、自暴自棄になって暴れていた時に、師範はこぶしでボコボコに打たれました。
その時、狛治は気を失ってしまいますが、目を覚まして、罪人の自分が家にいていいのか、と聞いた時にこう言われます。
「罪人のお前は 先刻ボコボコにしてやっつけたから大丈夫だ!」
猗窩座はそのセリフをつよく心に残していたのではないか、と思うのです。
炭治郎たちと戦っていた際、猗窩座が炭治郎に素手で殴られるというシーンがあります。
炭治郎は戦闘の疲れで、日輪刀が手からすっぽ抜けたのでこぶしで殴っただけなのですが、その時に猗窩座は脳裏にある人の面影が浮かんでくるのです。
それは師範でした。
以前、こぶしで師匠に殴られ、狛治は生まれ変わりました。
今度は炭治郎に殴られたせいでその事を思い出し、再び生まれ変わることを望んだのではないでしょうか?
猗窩座にとって、こぶしは本当にそれくらい大切なものだと思います。
強さの裏に・・・。
このように猗窩座は、強さの裏に人間の時の心の弱さが隠れています。
そして、あきらめの裏に人間としての幸せを求める強い渇望と、愛する人をもう一度守りたいという美しい想いがひそんでいます。
残酷に煉獄さんを打ち倒したあの時には全くわかりませんでしたが、猗窩座の人間らしい弱さを知った時、絶望は人をここまで苦しめること、そして残虐にさせてしまうこと。
でも、守るべき人がいることによって、自分の心も強くなるということに気づかせてくれます。
弱いものが嫌いで強さを求め続けた猗窩座、その根底にあるのは、大切な人を守れなかった弱い自分。
嫌いなのは弱い自分だったのです。
そして、炭治郎たちとの戦いによってそれを思い出し、認めたくなかった自分の弱さを自分で許した彼は、初めて大切な人たちと再び会う事ができたと思うのです。
そのような猗窩座だからこそ、多くの人が魅力的に感じるのではないでしょうか?
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