「もっとも売れている少女漫画」としてギネス認定までされた名作・『フルーツバスケット』(高屋奈月)。
女子高生・本田透と、物の怪に憑かれた草摩家の者との交流を中心に描いた作品です。
さて、この作品を語る上で欠かせないのが、主人公・透の母である本田今日子。物語冒頭ですでに故人。にもかかわらず、その存在は作品全体に大きな影響を与えています。
アニメ最新作である劇場版ではメインを務めるほど。
なぜここまで大きな存在となりえたのか? それは、ストーリー上のキーパーソンという要素もあるのですが、もう半分は溢れんばかりの人間的魅力から。
それらをひとつひとつ紐解いていきます!
(以下、ネタバレを含みます)
目次
とにかく親バカ! 無償の愛を注ぐ理想の母
「親バカってこういうことを言うんだなあ…」透などの回想に登場する、在りし日の彼女を見た感想は大体こうなるでしょう。
一人娘の透に対し、今日子は「大好き」という感情を全開にしています。
「透を産んで良かった」「透がいるから毎日笑って生きていける」こうした発言はもちろん、日常の些細なところでも愛が止まりません。
娘の料理はべた褒めし、娘の外見からしゃべり方から全てに対して「可愛い」大連発。彼女と透のシーンは大抵の場合、お花かハートマークが飛んでいます。いっそ見ている方が恥ずかしい。
しかし、苦笑しつつも、多くの人は「羨望」を抱くのではないでしょうか。
「好きだから何をしても可愛く思える」とは親バカの神髄ですが、それは「無償の愛」とも言い換えられます。
相手が〇〇だから好きなのではなく、好きだから全てが愛おしい。見返りや条件のない、揺るぎない愛情です。
親が子供に与えるべきもののうち、恐らくは最も大事なそれを、今日子は最期まで与え続けました。
透はフィクションという贔屓目を抜きにしても、聖人君子の一歩手前レベルのいい子なのですが、なぜそんな風に育ったのかがとてもよくわかります。
きちんと愛された者はまっすぐに、優しい人に育つ。それを実感できます。世の中の大半の「お母さん」は、自分の子供を愛しているでしょう。
しかし、「きちんと伝えられるか」は別問題です。
どんなに愛していても、子供がそれを自覚できなければ意味がありません。しかし、様々な事情で、うまく伝わらないことも多いはず。
性格的になかなか大っぴらにできない、忙しいなどの環境的な理由で難しい。反抗期であれば、そうとわかっていてもつい感情に任せて怒鳴ってしまったり……。現実はなかなか、うまくいきません。
そんな中で、あれほどまでに娘への愛をダイレクトに伝えられる今日子は「理想の母」のモデルに見えるのではないでしょうか。
子供目線なら「こんな親が欲しい」親目線なら「こんな親になりたい」。いずれにせよ、今日子は読者の憧れの的なのです。
まずは受け入れ、受け止めてくれる。全肯定の懐の広さ
今日子の愛情の深さは、わが子に限った話ではありません。接する者全てに向けられます。
例えば、道を踏み外しかけていた透の同級生・ありさ。
外見・中身ともに不良然としているありさは、今日子に己を卑下したセリフを放ちました。それに対し、今日子は「そんな事言い切れない」「事情はそれぞれだ」と返します。
サラリと書かれていますが、今日子が他人に対し、見た目などで物事を決めつけたりしないという点が推察できるシーンです。
その後もありさは反抗的な言動をとりますが、今日子は笑って許しました。
ありさの抱える寂しさや悲しさが、人としての青臭さがわかるから。これは「器の大きい大人」にしかできない対応でしょう。(この後、打ち解けたありさは透の親友になります)
もう1人の代表例は、『猫』の物の怪憑き・夾。草摩家では蔑まれる『猫憑き』として産まれたがために、複雑な家庭環境に育った少年です。
彼は幼い頃、ブラブラしているところを心配した今日子に声をかけられました。
親のことを問われた夾は「母は死んだし父はいらない」「父親も自分が死ねばいいと思っている」と吐き捨てます。
こんなことを子供に言われたら。
人はつい、己の境遇と照らし合わせて「そんなことない」「親は子供を愛している」などと言いたくなりがちです。なぜなら、それが多数派だから。
しかし、今日子はただ一言、こう返すのでした。
「そりゃあ 寂しいね」
このシーンでもありさの時と同様、「事情はそれぞれ」と、偏見を持っていないのが見て取れます。そんなはずがないと否定せず、夾の感情を認め、寄り添った言葉。
認めてもらえた、受け入れてもらえたことは、疎外されてきた夾にとってどれほど嬉しかったでしょうか。
このように、今日子は「決めつけず、否定せず、ありのままに受け入れてくれる」心の持ち主です。何か意見するでもなく、ただ包み込んでくれる。どうしようもない自分でも、認めてくれる。
こんな人に傍にいてほしい、こういう人でありたい。きっと、多くの読者がそう思うでしょう。
数多の傷を乗り越えてきたからこその重み。胸を打つ言葉たち
これまで語ってきたように、理想の母・憧れの人物たる今日子ですが、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではありません。
絵に描いたような冷えた家庭に育った今日子は、愛を知らず、荒れ果てた中学生時代を送っていました。
非行に明け暮れ、しかし不良仲間とも馴れ合わず、己も周囲もひたすらに傷つける毎日。
そんな彼女が愛を渇望していることに気づいたのが、偶然出会った教育実習生・本田勝也でした。2人は紆余曲折の末に結婚し、娘・透も産まれ、幸せは絶頂期に。
しかし幸福な日々は長くは続かず、勝也はある日、風邪をこじらせて帰らぬ人になってしまうのでした。
……この後、透の存在を胸に這い上がることができたとはいえ、今日子がどれほど深い奈落に突き落とされたのかはご想像いただけるかと思います。
『フルーツバスケット』は数々の名言を生み出した作品でもありますが、中でも今日子の言葉は群を抜いて心に染み入ります。
ひとつひとつが、ずしりと来る。
今日子は己の過去を語ることこそあれど、助言自体は、経験から学び考えた結果だけをアウトプットします。
だからこそ、どれもが洗練されていて、受け取る側に刻まれます。
愚かだったこと、他人を傷つけたこと、どん底まで落ちたこと……それらをなかったことにせず、迷って、悩んで、受け入れて乗り越えた今日子の言葉。
人は誰しも完璧ではありません。だからこそ、彼女のそれは、大なり小なり欠点を持つ我々読者の共感を獲得し、心に残り続けます。
そして、今日子は押し付けるのではなく、「ただ伝える」だけ。強制をしてこない優しい言葉たちは、やはり包み込むように、読む者を癒してくれます。
辛いことや悲しいことは、生きていく上で避けられません。今日子の言葉と生き様は、その対処法を授けてくれているのです。
今日子はキャラの中にも、読者の中にも生きている!故人でありながら、作中の登場人物、そして読者に多大な影響を与えたキャラ・今日子。
彼女の姿は「限りある命をどう生きるか」が大事なのだと告げています。
「迷っても 間違っても 最後には 生きた事に誇りを持てるがんばったね”って 言ってもらえるような一生を」筆者個人が一番好きな今日子のセリフ。
今日子はまさしくこの通りに人生を歩み、生涯を閉じました。
その生き方や遺した言葉は、彼女の死後も、たくさんの人の「生きる糧」となっています。死んだらそれで終わりではない。
大変気障な言い回しになりますが、今日子は今もなお、形を変えて、キャラと読者の中で生き続けているのです。
愛すべき主人公を生み出した、愛すべき母。
全ての原点となるキャラ・本田今日子は、読む者に心から愛され、また逆に、読者をも愛し受け入れてくれているのです。
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